日本への帰任
2022/05/24
2016年から実に6年ベトナム駐在としてやってきたけれど、この度日本に帰国することにした。うちの会社は従業員の意見が強いので、会社命令でというよりは自分の意志で決めた。
帰国することにした理由は2つ、一つは自分のキャリアの天井が見えたことと、もう一つは子供の教育である。
キャリアの天井:
駐在になったころはまだ全然仕事が出来なくて、取り組む仕事全てが難しかった。本社からの応援がほぼなく、自分で本を読んで調べて仕事をまわすというスタイルで仕事を回すしかなかった。なかなかの無理ゲーが続いたがなんとか毎回乗り切ってきた。お陰で知識もついたし仕事の品質もスピードも上がった。しかしそれに比例して相対的に仕事の難易度が下がり、知的好奇心が満たされなくなっていった。ベトナムはまだまだ途上国で外資資本で工場を回しているだけなので、技術的に複雑で専門知識を多用するような難しい仕事がほとんどない。 さらに賄賂・血筋文化で優秀な人材が自国に根付かず海外に出てしまうので、付加価値競争力のある産業が育たない。結果高級派遣業のコンサルに求められる要求も自ずと低レベルになるし業務内容もかなり限定的になる。難しい案件をまわせる土台もないし、ニーズもない。
コンサル職というのは専門職なので、専門を極められないとキャリアが行き詰まる。各年齢層でパスしているべき役職があって、それをパスしていないと暗にポンコツ認定される。順調に昇進していかないとポンコツ認定されてキャリアが閉ざされる。
海外駐在をやってみて気付いたのだが、管理職の役割が求められる駐在員キャリアは、専門の知見を追及していくコンサルキャリアに全く貢献しない。駐在をやればやるほどコンサルとしてポンコツになる。うちのチームは正直使える現地コンサルがいなかったので、私が自力で案件を回していたこともあり、まだかろうじて自分自身の専門性に空白が出来ることはなかったのだが、5年もするとベトナムで見つけられる専門領域は食い尽くした感が出始めて、これはポンコツになる前に帰らなければと焦るようになった。
また、6年間小さいながらも城の長をやってみて、全然このポジションが自分に向かないと心から実感した。城の長より長の右腕のほうが向いている。おっさんに交じって足の引っ張り合い(社内政治)をやるのが精神的にしんどすぎる。そんなことをやるために大学まで出たのではない。
それにコンサルは専門職なので、管理職スキルよりも専門性スキルのほうが市場評価が重い。だから管理職タスクに意義を感じなかったし、なんなら時間の無駄だとすら思っていてしんどかった。事務所探しから採用エージェント探し、採用面接、名刺作成、営業、提案、価格交渉、納品、回収、従業員の給与交渉、パートナー探し、本社説明、隅から隅まで(しょうがなく)やった。でもこうもしているうちに歳ばかりとって、知識の浅い、単価ばかり高いアホなババアになってしまうと思うと焦りも出てきた。だからあまり仕事を選ばず、自分が出来そうな案件をなんでも獲って、とにかく現場の前線に立つように意識した。そしたらベトナム人メンバは専門外のことはやりたくないと匙を投げて、随分孤軍奮闘するはめになった。稼いだのに結局本社にも怒られた、チームビルドになってないと。理不尽なことばかり、思い通りにいかないことばかりだった。
日本本社のお膝元にいたら巡り合えないような毒饅頭も少なからず食らった。本社だったら入口すら通してもらえないような怪しい個人事業主につきまとわれて訳わからない要求受けることもあったし、一生懸命営業して情報だけ抜きとられることも頻繁にあった。おかげで人を見る目は多少ついたが、元来お人好しな私、他人を疑ることを習慣にすること自体が精神的にしんどかった。プチ更年期か自律神経失調症かわからないがメンタルが不安定になり、コロナの厳しいロックダウンもあって改善の兆しがなく、抗不安剤を常備するようになった。大きなチームの傘下に入って、フィルターされたものだけを料理したいと切に願うようになった。
本社は殆ど口出しもしないし助けてもくれなかったが、努力はそれなりに評価して報酬はたくさん出してくれた。“これで納めてくれ”というスタンスなのだろう。だから短期的には金銭的な面での不満はなかったのだが、長期的に見れば身に着ける知財資産が手薄になっていけば自ずと稼げる力も減ってくるので、早いとこ脱出して学びある仕事に従事しないと定年前後でじり貧になると思った。レベル3で歳とコインばかりとりまくってる永遠のクリボーに収まるのではなく、レベル100のピカピカマリオでガンガン稼げるようにならないと、リアルな話定年後会社員やめさせられた途端に年金暮らしになってしまうリスクがある。(年金暮らしで賄える生活レベルではない)頑張って60歳でレベル200に到達して、60過ぎても指名されて、パラグライダーのようにゆるやかに下降する労働人生のほうが生き方として恥ずかしくない。
現地メンバの管理も正直とても骨が折れた。私がこれまでに出会ったベトナム人の方々、留学経験がない人は大抵、自分の間違いを認めないという癖が浸透していて、こちらの話を聞かせるのにすごく時間がかかった。*1 膝をたたけば足が上がるように、こちらが苦言を呈すると秒で大量の屁理屈が返ってくる。しかもその言い訳の聞き取りを英語でやらなければならない。私の発言に被せて言い訳してくるのも気持ちのいいものではない(人の発言に被せてしゃべるのはベトナム文化)。英語で会話するだけでも疲れるのに、聞き取った内容がだいたいクソで、しゃべれば被せてまた屁理屈で、やり場のない怒りばかり溜まった。しかしここで怒ると今日の明日で辞表提出(これは案件リカバリが超絶大変なので避けたい)なのでぐっとこらえてばかりだった。当然状況は改善しない。しょうがないので、最終的に私が編み出した対策案は、みんなに屁理屈を好きなだけ言わせておいて、私が自分で資料を完成させて渡す運用だった。ついに最近ではベトナム語で資料作ったりメールしたりするレベルになった。部下のストレスは減ったものの私のストレスは倍増して、苦労をするならせめて日本語で違う苦労をしたい、すぐに部下に辞められり不安に気を揉まなくていい環境で仕事がしたい、ベトナム語の意味を辞書で調べる時間を価値ある仕事か休息に使いたい、そういう想いが強くなっていった。*2&3
*1 私の知る企業で、この例に漏れる企業がいくつかあった。いずれも世界的な大企業なので選抜が厳しく、自ずと人材が淘汰されているとのことだった。そこに努める駐在員の皆さんが、自分達がラッキーな例外だということを知らないのが意外だった
*2 ベトナム人女性は優秀な人が多い印象で、もし私がベトナム人女性に囲まれて仕事できたら今とは全然違う状況だったと思う。
*3 “他責にする能力”は身内にあると便利で、我が家ではベトナムでクソサービスを受けたら旦那さんを繰り出して猛突撃する。静かにしていたら一生舐められて終わり、ベトナムではいいように搾取されるばかりで生きていけない。
子供の教育:
子供の教育については、日本人学校とインターの選択肢しかなく柔軟に環境を選べないことが最大の理由だった。出産前後は”子供を持つ”実感さえなくて全くきちんと考えていなかったのだけど、OS(Operation system)たる第一言語が母親の私と違う言語であれば、成長過程で確実に子供の勉強サポートが手薄になる。例えば仮に子供の英語が第一言語になったとして、私も旦那も勉強をサポート出来ない。日本語なら調べればなんでもなんとなく理解できると思うが、英語で数学とか英語で物理などもはや暗号でしかない。(←文系)そうすると子供の学習計画、進学を1mmもサポートできなくなる。英語圏の受験情報も0からの収集になる。360度見渡す限りの不利しかない。
また、気難しい思春期になった時や、いじめにあうような有事の時、繊細で些細な感情を自分が汲み取れないリスクがある。SNSで子供がいじめられていたら冗談抜きでfu** youとyou bastard とshitとgo to hellしか言えないし、そもそもいじめの隠語を知らずに子供がどういじめられているのか理解できない可能性もある。これでは子供を守り相手を攻撃する情報戦の武器として全く十分ではない。子供の第一言語がベトナム語だともう何も出来ない。勉強も見てやれないしf**k youも言えない。
そういう理由で日本人学校一択なのだが、ホーチミン市には日本人学校は幼稚園こそ複数あるが小学校は1校しかない。選択肢が一つしかないところにリスクがある。学校方針や教育方針が微妙でも他を選びようがないし、何かあってもろくに弁護士や法に訴えることもできないし、柔軟に転校もできない。日本で日本人として暮らす選択肢がとれるのならば、ベトナムの日本人村で暮らす選択肢は取る必要はないしむしろ取らないほうがいい。
そういうわけで割と理詰めで帰任を決めた。仕事が辛いというネガティブな理由ではなかったので、丁寧に、2年かけて各方面に根回し調整した。旦那さんは会社を興して不労所得の仕組みを作り、リモートで会社運営できる準備を整えた。
私は自分で来たくてベトナムに来て、帰りたくなって日本に帰る。良くも悪くもかなり自由に、好きなようにやらせてもらった。でも、自分で選んで自由に行動することの負債回収が思いの外重かった。極端な話、コンプラに厳しい大手に勤めてて日本の給与得ていたから、日本に無事戻ることができたと思うところも大きい。しかしこのポジションの選択が100%偶然だったというのが今振り返ると恐ろしい。勤務先が大手じゃなかったり現地採用だったら、色んな意味でこうはことが運ばなかっただろう。是非この反省を、海外にぼんやり憧れる、未来の海外勤務従事者に知ってほしい、そして適切にリスクヘッジしてほしい。また、いつかの未来にまた駐在出向の白羽の矢が立った自分と、似たようないばら道を辿りそうな娘が、これを読んで、間違いのない判断を下してほしい。
日々積み重なる実地体験が優先順位や判断を形成しているので、三十の時に下したベトナム駐在の判断が間違っていたとは思わない。あれはあの時の最善だったのは間違いない。でも結果的に茨の道だったし、自分自身と家族の状況も変わって、たった数年でベトナムの環境が自分に不適合になった。駐在期間で得た学びは大きかったが、いろんな理不尽を一人で背負って非常に辛かった。未知の世界に飛び込むことは大きな喜びがあり楽しいものだが、自分の将来のリスクヘッジのために適宜種まきしとくべきだとは思った。私の場合はたまたま、”独力で健気に開墾していた残留日本兵”的な素質が買われて、見初めてくれたスポンサーチームに“脱出ビザ“を発行してもらえた。“退路を断つ”という言葉があるが、そんな0か100かみたいなことして良い結果が得られることってあんまりない。途上国では自分が頑張ってもどうにもならない嫌なことが毎日3個くらいあって年間で1000個くらいある。人間ってこんなに汚いのかとげんなりさせられる。断言するが、”こんな国にいれるか”といつか思う可能性は100%。いつでも逃げられる準備をしておくのが賢いやり方だと思う。
ベトナムを嫌いになったわけではない。ろくでもない経験をたくさんしたが、ほぼ仕事関連の人間関係だった。それを除けばベトナムの暮らしは気楽で、そんなに悪くはなかった。人種の混じり合う大都会の匿名性が心を癒してくれることもあった。自分の居場所を見失ってしまった日本を脱出した後、時間をかけて、着実に祖国への帰国の準備と覚悟を整えられた大事な期間と場所となった。私にとっては第二の故郷であり、仕事を持ち込まない“地元”として気楽な繋がりを維持していきたいと思う。