旦那さんとのなりそめと、国際結婚
私と旦那さんが初めて会ったのはホーチミン市にある音楽スタジオで、私はそこに暇つぶしに週1回ピアノを弾きに行っていた。そのスタジオは中心地から数キロ離れたとろにある完全ローカルのスタジオで、英語が全く通じなかったので、ベトナム人の友人のチャンに仲介して予約してもらった。私は決まった曜日の決まった時間に行って弾いて支払って帰る、言葉の通じない、得体の知れない一人の外国人客だった。ある日練習を終えて帰ろうとすると、雨が降っていてタクシーがなかなか捕まえられなかった。その時にずぶ濡れになってタクシーを捕まえてくれたのが今の旦那さんだった。その頃旦那さんは全く英語が出来なかったので、私たちはろくな会話一つもしなかった。唯一成り立った会話は、「名前はなんですか」。後日Facebookで友達申請が来て、チャットをするようになった。
Facebookでチャットをする時は旦那さんはグーグル翻訳も併せて酷使していたので、多少の文法間違いはあれど意思疎通の出来るレベルの英語を書いていた。ある日、「今度僕が送ります」と言い出した。私はてっきり音楽スタジオのVIPサービスだと思って、なかなかサービスがいいな、タクシー代が浮くなくらいに思っていた。そうしていると次の週には「次回僕が夕飯をご馳走します」となった。一端のローカル音楽スタジオにしてはサービス過剰なのではないかと思い、チャンに彼はどういうつもりなのかと聞いてみた。するとなんとチャンいわく、私たちはベトナム的にはもうカップルですよとのことだ。なんでも、ベトナム人の交際というのは日本人のように改まって交際申し込みをするのではなく、なんとなくいつも一緒に行動しているうちにカップルになるとのことだ。本当に?全然そういう雰囲気じゃないよ?と言っても、「既成事実」の一点張りである。むしろ交際する気がないなら早めにその旨伝えた方がいいとのこと。一端のVIPだったところから交際の承諾を決定する立場になってしまった。とりあえず共有認識を持った方が良いと思い旦那さんに事実確認したところ、結論は「付き合ってない」だった。しかし「付き合う」という話題になって、改めて二人の関係性を確認することとなり、そのままめでたくというかなんというか交際という流れになった。そして後から気づいたのだが、チャンは生まれてこのかた彼氏がいないので、多分彼女の交際宣言は事実ベースというよりは単純に彼女の妄想かもしくは知り合いにたまたまそういうカップルがいただけで、少ないサンプルからチャンが勝手にそう思い込んでいただけじゃないかと思っている、本当に今更だけど。
旦那さんはとてつもなく純粋で純真な人なので、私たちはとても楽しく交際を続けた。私がそれまで生きてきた、競争に満ちどちらかといえば華やかな世界の人たちとは真逆の、純粋で素朴で駆け引きのない人柄にとても癒されたものだったし、実際今もそうだ。そして付き合って数ヶ月の時に、とても自然に結婚する運びとなった。何かが決め手と言うよりは、特に断る理由もないし、今後ずっと生活を共にするために当然結婚する、そんな感じだった。
でも改めて結婚することが決まると、どこでどうやって暮らして行くか決める必要が出てきた。しかし少なくともその時点では旦那さんが日本に来て働くのはあまりにも障壁が高かったので、実質的には私がベトナムで働くという選択肢一択だった。今後長く日本の生活レベルを維持し、かつ医療費と教育費も含めた十分な貯蓄を作るにあたっては現地採用で働くわけにはいかなかったので、日本で就職しホーチミン市勤務、これまでと同じ職種という条件で仕事を探した。なかなか厳しい転職活動だったが、私はいろんな人に迷惑をかけながらそれまでの徳貯金(というものが自分の中にあると信じている)を全部使い切って、いやむしろ負債を抱えて、無事希望通りのポジションに転職した。本当に一時期は住所不定無職アラサー独身という、いい大人が持ってはいけないタイトル全てを保持する底辺フラグだったが、9回裏の満塁ホームラン、無事社会復帰したばかりでなく、希望通りの条件全て揃えてもらって海外勤務のポジションを獲得した。そしてホーチミン市に赴任となり今に至る。無事結婚し、子供も生まれて、今はビジネス拡大のフェーズに入ったので、家事育児旦那さんに押し付けて仕事に邁進している。
ところで国際結婚の話に戻ろう。
国際結婚は大変だ、ベトナムのように日本と経済格差がある国なら尚更だというのは全くその通りで、反論の余地はない。ただ、経済格差というのは国際結婚の難しさの1つの側面でしかない。小金持ちと結婚していたら親戚付き合いに振り回されてノイローゼになっていた可能性もある(その可能性は私の場合かなり高い)。そして、どの国の人との結婚でもそれぞれの難しさがある。アメリカや欧州をはじめとする先進国はえげつないまでの人種差別が根付いているし、中東は宗教のハードルがとてつもなく高い。女性が男性よりずっと格下に扱われる文化もある。日本人の男尊女卑文化がもたらす、女性の非労働習慣が国際結婚で問題を引き起こすことも当然多い。文化が違う以上「当たり前」という前提に立つことは不可能で、互いの違いを認識してどう歩み寄り協力しあって解決するかという姿勢が同一民族の結婚よりずっと求められる。
国際結婚の苦労というのは、例えるなら終わりのないマラソンのようなものだ。ずっと走り続けること自体が既に辛いのに、炎天下だったり、高地だったり、脚を傷めたり、果ては事故に遭ったりと、とにかくせわしなくアクシデントが起こる。体調がいい時は走り続けられるが、ちょっとでも不調だとあっという間にゲームオーバーである。玉突き事故のように色んなことが押し寄せてくる。そうなるともう、境界線を立てて威嚇射撃をするか、布団を被って我関せずを貫くしかない。どれもこれも致命傷になるような面倒なイベントでは無い、ということは唯一の救いかもしれないが。ベトナムに来てから面の皮が増殖を続けている。将来すごい意地悪ババアになるんじゃないかと今から心配している。
ではなぜそんな辛い環境に身を置くかというと、平たく言えば、私自身がそれを必要として、好き好んで選択していることにある。楽しんでいることもあるし、瀕死で乗り越えることもあるが、困難を乗り越えて得られる達成感、高揚感いうのは何物にも代えがたい。好戦的ということではなく、どちらかというと、いつも刺激を受けることで自分を試し、乗り越え、生きていることを実感する必要があるタイプの人間なのだと思う。
一方で旦那さんは、おそらくあまりこういった困難自体を楽しんではいない。おそらく、難しいことは考えずに、ただ漠然とやり過ごしている。彼はあまり自己実現とかそういう小難しいことにはこだわっていない。彼は純粋に私と私たちの子供を心底愛していて、一緒にいるだけでこの上ない幸せを感じている。私よりずっとずっとシンプルに生きている。そして私の生き方を尊重し、できる限り自分を合わせにきてくれる。私が日常起こる雑問にああでもないこうでもないとわめいたり、せわしなく仕事に没頭して自己実現がどうとか言っている傍ら、旦那さんは深く淀みない愛で家族としてのつながりを構築し維持している。私は自分の中の、決して満たされない承認要求みたいなものにずっと振り回されているが、旦那さんはそういう損な生き方を変えるよう説得したり、別の価値観を押し付けて来たりすることなく、ただ黙って全てを受け入れて支えてくれる。そして私に、母としてこうあるべきという理想を押し付けて来たりすることもない。
結婚、特に違う民族同士の国際結婚は、お互い相入れない部分も確かに多くて同一民族の結婚より苦労することは多いかもしれないが、それを乗り越えられるかどうかは結局は本人同士の相性次第だ。無条件に私を受け入れる旦那さんの存在があって私たち成り立っている。私の自己中、我儘な態度に振り回され、私がやりたいようにやるために旦那さんが帳尻を合わせてくれているから結婚生活が成り立っている。日本人だから、ベトナム人だからという枠を意識したことはない。そして、私のような非常に難しい人間に、家族という唯一無二の存在を持つためのきっかけをくれ、形成し、維持に努めてくれている旦那さんを私は心から尊敬している。自己中な私には、自己中な誰かに寄り添ってその人の全てを受け入れるようなことは出来ない。そこが私に欠けている点であり、私が旦那さんと結婚に至った最大の理由かもしれない。陳腐な表現だが、自分に欠けたものを埋めてくれる人の存在は金で買えるものではないし、望んで努力しても必ずしも手に入れられるものでもない。転職も相当幸運だったと思うが、旦那さんと出会ったことはそれ以上に幸運だった。この幸運を私なりに大切に守っていかなければならない。
私はブログを基本的には行き場のない皮肉をちりばめた情報発信に使っているけれど、今回はシニカルなオチはありません。お題がお題だし、そういうの求められてないはずとも思ってますが。物足りなさが満載だけど、私の小さな幸せの自慢を押し付けて、今日はここまで。