23年夏のダクノン帰省
2024/03/06
23年の夏、貴重な夏休みを使って一年半ぶりにダクノンに帰ることになった。ベトナムから日本に帰国して早1年半。ベトナムの記憶はだんだん薄れてきたが、まだまだ仔細をありありと思いだせる。それだけでモヤっと、イラっとする。少し上機嫌だった日に、義理の両親ともっと喋ろうとベトナム語中級の参考書を買ってみたが、平静を取り戻した翌日返品した。 しょうもない旅行を少しでもストレス軽減するため、強烈な赤土も落とせるウタマロ石鹸と洗濯物用歯ブラシ、ふわふわトイペ、最強無水アルコール入り自作ウェットティッシュ2箱、超防音耳栓、ノイキャンイヤホン、床に落ちた虫を踏んでもいいように使い捨てスリッパ、虫よけスプレーを装備する。準備は完璧、多分。 どうして行きたくもないのにベトナムに行くのかというと、単純に義理実家に顔を見せるためである。義理親が倒れてから帰省したら遺産狙いだと思われるだろうし、日本人妻がひどいという噂がダクノンに蔓延して旦那さんの立場がなくなるのもなと思った。すごい打算的だと言われそうだがしょうがない。気軽に行ける場所でも金額でもないので、私なりに確固たる理由が必要なのだ。 そうこうしているうちに出発日がやってきた。娘と夫はわかりやすく浮足立っている。2人で行けばいいのにと思うかもしれないが、ダクノン往復中に過積載バスが崖から落ちたり義両親の家が大雨で土砂崩れて崩壊する可能性があるような気がするので、危なくて2人で行かせられない。行く前から帰りたい。
この「義理実家に行くハードルが高すぎる」という課題に対する解決案をぼんやり考えてみた。最寄りの調布飛行場から、チャーター機で直行でダクノンに行けたとしたら、帰省の負荷は減るだろうか?⇒ダクノンに空港ないので着陸できず、最寄りのバンメトート空港あたりに降ろされるだろう。そこから車で5時間くらいかかる⇒それだとホーチミン市から行くのとあまり変わらない。チャーター便の利便性がぜんぜん活かされない。⇒そもそも義理両親がダクノンに住んでいること自体が問題なのではないか⇒義理両親がホーチミン市に移住したらいいのではないか⇒提案。驚くべきことに、これを書いている今、義理両親は、ホーチミン市に移住することを検討している・・・!
チェックイン後搭乗時間まで爆睡する予定で羽田発1:50分の深夜便を予約したが、子供も夫もそわそわわちゃわちゃしていて全く寝付けず、結局搭乗まで起きていた。ベトナムと関わり始めた30歳くらいの時は深夜便などなんでもなかったが、もはやアラフォー、深夜便がきつすぎる。深夜便を運航する航空会社の中年従業員に勝手に同情する。私が将来娘に提示したい、狙うべき勤務条件に1句加わる。「No B2C, No エッセンシャルワーカー, フルリモート可, No夜勤」。
爆睡して一瞬でホーチミン市へワープ。1年半経っても全く何も変わっていないベトナム。爆熱の東京より涼しいのを期待し避暑してきたけど、忘れてたが絶賛雨季で爆湿、違う意味で辛い。タンソンニャット空港のゲートで旦那さんの会社の従業員が我々を録画しながら出迎えてくれた。その動画何に使うのか?そこからタクシーでダクノンに直行直帰する。流れゆくホーチミン市は、全く!何も!変わっていない。間違えて以前住んでた2区に帰りそうな勢いである。 深夜便で疲れすぎてタクシーで爆睡していたらあっという間にダクノンについた。着いた時から疲れ切っている。 久しぶりの再会を喜び、みんながお土産を交換し合っていた。私は東京バナナくらいしか準備していなかったが旦那さんはさすがにちゃんと用意していた。しかしその内容は、義姉にはクロエの香水と甥にはNikeの靴で、日本から持ってくる意味全然ないものばかりだった。靴に至ってはMade in Vietnamであった。 うちの娘はじじばばからモン族の衣装をもらった。ジジババはモン族の住んでるとこまで買いに行ったらしい。普通に5000円くらいしたらしい。観光客かよ。ほんとは私に買いたかったのだがモン族はみんな小柄だからサイズなかったそうな。その情報要らなくないか?緑の派手なスパンコールで、着ていくところが限られそうな感じではある。ビーズじゃらじゃらで結構重く、普段使い出来ない。クリスマスにツリーのコスプレということで再利用価値はあるかもしれない。尚、後日のクリスマスには利用されなかった。
みんなが再会を祝い合っている中、私はこの状況を冷静に俯瞰する。「私一応平日は大手町勤務のバリキャリで、24時間前まで国内出張で大阪にいたのに、今日は地の果てダクノンへ帰省している。私の人生、振れ幅がすごい」と思う。若かりし頃の残債感が凄い。
初日からやることがないので、ひたすら食っちゃ寝を繰り返す。皿洗いの手伝いも何もしない。自分の周辺だけ掃除をする。私は先日単独ローンで家を買った。女一人でローンを組んで家を買うなんて偉すぎるという高い自己評価のもと諸々の重労働から自主的免責扱いとなった。それに夫は実家のおふくろの味を楽しみたいと思うので、そういう意味でも私が料理する場面ではないはずである。だから本当に何もやらないで、冷蔵庫のドリアンをひたすら食っていた。ところが私はもともと多動気質なので、だんだん黙ってることが辛くなる。仕事をしたいわけではないが仕事をしないと気力体力が余ってストレスがたまる。2日目には家の中を熊みたいに歩き回っていた。そしてあまりのストレスで帰国後難聴になった。
暇すぎるので、雨の合間を縫って庭の果樹を調査しに行く。私は2022年に日本に帰国してから果樹を育てまくっていて、今家にイチジク、サクランボ、ブルーベリー、アプリコットなんかの果樹がわんさか生えている。昔からつやつやした丸い実に目が無くて、その中でもプラムが好きだったのだが、腹いっぱいプラムを食べたいみたいな渇望を長らく寝かせ過ぎて、先日プラムを大人買いしたものの昔の感動は無くなってしまい、“たくさんの丸い実に囲まれ好きな時に食べたいだけ食べたい”という食い意地だけが成仏できず、せこせこと果樹を育てている。 それで旦那実家にもイケてる果樹がないか庭を探しに行ったら、トトロに出てきそうなでかい大木にドリアンがしこたまぶら下がっていた。結構凶暴な画で、私が求めているイングリッシュガーデンみたいなおしゃれ感とか微塵もない。4階建てのビルくらいでかい。このドリアンツリーはうちの横浜の自宅に移植できるだろうかと考えてみる。これを自宅に植えたら隣家のご子息にドリアン落ちて、頭がい骨骨折とかで損害賠償になること必至である。検疫問題以前に却下となった。ただし 今後”果樹発作”が起きたときにドリアンツリーの危険性をいつでも再認識できるよう巨大なドリアンと写真撮っておく。いよいよ手持ち無沙汰になり家に帰る。
ドリアンツリー。可愛さはマイナス寄りのゼロ
またやることがなくなる。義母がアボガド食えとアボカドの実を持ってきたけれたけど生の実そのまま渡されても困る。料理する気ゼロだったので、わさび醤油も持ってきていない。それにほぼ無動の状態でアボカドなんか食ったら、エネルギー保存の法則を超越して1アボカド=1kgの増量である。ヒマにひたすら耐える。もし今後の人生で誤って刑務所に入れられるようなことがあったら、私はすごい働くと思う。
夜はジャングルの葉とかいうサラダミックスで生春巻き。庭の各所からマンゴーの葉、アボガドの葉、オックの葉などが寄せ集められる。一応洗いはするが、食べてる最中にも青虫が這い出てくる。絶対になんかの虫の卵を食べてしまっていると思う。ジャングルリーフはヤギの炭火焼と一緒に春巻きにして食べた。ヤギは淡白な味だった。メンマの炒めたやつも食べた。”何かを食べている”か”何かを食べようとしている”かで1日が終わる。
2日目は朝食後、マーケットにベトナム高菜買いに行って漬物を作った。マーケットでは白い巨塔としてたくさんのおばちゃん達に見上げられた。いやいや覚えてろよ、先日まで結構頻繁に来てただろ。 ベトナムにはベトナム高菜と私が勝手に呼んでいる高菜があって、それで水キムチみたいな発酵タイプの漬物を作り、豚肉と炒めるととてもおいしい。生野菜は日本に持ち込めないので漬物にして持ち込もうと、大量の高菜を買って丁寧に仕込み、そして後日この成果物を義理実家に忘れて帰国した。
夕飯時、でっかい羽虫が光に集まってバタバタ飛び回って、虫が大嫌いな私と娘は夕飯どころではなかったので、家中に殺虫剤スプレーしていそいそと蚊の網に逃げた。みんな全く気にせず、料理に落ちてくる羽虫を取り除きながら食事している。コバエみたいな扱いである。そもそもこの羽虫は食べられるんだ(だから気にするな)とか言ってる。ベトナム人は虫を“食べられるか”“食べられない”かくらいの基準でしか分類していない。
雨季もあってダニが大量発生しているらしく、寝ている間にダニに刺される。1日10か所くらい刺される。最近雨季にダクノンに来てなかったからダニ対策を忘れていた。日本の居心地が良すぎて平和ボケしてしまった。暫定対応としてアイロンで丁寧に布団を熱すると、敷布団表層面のダニは死んで、刺される頻度が減った。次回は防水シーツ持ってきて、敷布団から這い出るダニをブロックしようと思う。私はもともとお嬢育ちなのに、各種貧乏関連の苦難に前向きに対峙してとても偉いと自分で思う。ちなみに刺されるのは私と娘だけで、地元の人は刺されない。地元民はダニだけじゃなくて蚊にも刺されない。地元民は適応して皮膚が象みたいに分厚くなっているんだと思う。だからダクノンでは虫刺されの悩みを誰にも理解されないので、私たちが帰省するときに何も準備・対策されない。だいたいベトナムに虫刺されに関連する医薬品激少である。布団乾燥機は当然ない、防虫グッズが全般的にない。しかも虫刺されスプレー作ってるのはロート製薬の子会社である。ちなみに、虫問題を解決できるベトナム最強のソリューションはホテルニッコーサイゴンに泊まることである。つまり義理両親がホーチミン市に移住して、私たちはホテルニッコーサイゴンに泊まれば、「義理実家に行くハードルが高すぎる」問題も含めて全ての問題が解決する。
近所のキッズはうちの娘に覚えたての英語で話しかけているが、残念、娘は英語全くわからない。多言語環境にいると多言語ネイティブにはならないまでも複数言語話せるくらいにはなるかと思っていたが、うちの娘はベトナム語も英語もやらせていないのに日本語もLimitedになってしまった。日本に帰国して1年半、最近やっと意思疎通がまともになってきたくらい、言語能力に希望がない。近所キッズの英語を全無視して一方的に日本語で話しかけている。ふと、ベトナム語も英語もだめで日本語すらLimitedなのは”人の話を聞いていない”ことが根本的な原因ではないかと思ったりする。キッズ+娘は、意思疎通は出来ていないが、みんなでマインクラフトをやっている。確かにマインクラフトだったら、TNT(トリニトロトルエン:爆薬)とか世界共通だろうから、言語を問わないかもしれない。
義父が庭にプールを作ってくれていた。近所キッズを誘ったら「風邪を引いたら死ぬかもしれないから」と言って来なかった。なんでも医療へのアクセスがほぼないから、体調崩しそうなことを率先してやりたくはないらしい。もしかして私結構ヤバいとこにいるかもしれない。
私たちがダクノンに帰省すると、私以外のみんなはスーパーハッピーである。私たちは教育とキャリアを理由に日本に帰国したが、遠く離れた日本で生活するのはやはり親不孝なのだろうかと思ったりする。いやいや、子供がいい教育受けて、安全で豊かな暮らしして、幸せならそれが一番と思っているのだろうか?そんなこと気にしてみてもどうしようもないし変える気もないのだけど。 ホーチミン市でもいい暮らしは出来たが、ベトナムは私にとって仕事する場所ではなかった。文化、教育の選択肢も少ないし、エンタメも希薄だった。外資が入って煌びやかさを維持してるだけの都市だった。成長が遅くてアホになりそうな町だし実際アホが多かった。日本ではベトナムは将来性のある国の印象があるかもしれないが、私はベトナムは20年経っても今と変わっていないと確信している。みじんこが年10パーセント成長してもでかいみじんこになるだけである。10%成長が20年続くと元の6.7倍になるのだが、途上国は20年継続成長できるわけではなく、いずれ「付加創生も出来ないし単純作業にしては人件費高いから外資も抜けていく」という中進国の罠に陥る。ベトナムは汚職はびこっていてベトナムドンは信用なく、中進国の罠から脱出できる勝算が全く見当たらない。つまり中進国入り口で頭どまりになるだろう。そして悲しいかな、ベトナム国民がそれを一番わかっていて、ベトナム不信が強い。うちの会社の社用車のドライバーさえオーストラリアに移住した。少しでも金のある家は子供を海外に行かせる。ベトナム駐在経験者ならみんな知っているだろうが、ベトナムの中には国を引っ張れるような”きわめて優秀”な人材は残ってない。国が腐敗してるので能力を活用する場所も機会もないから、みんなアメリカはじめとする先進国に移住して働く。ベトナムで儲けられる王道手段は不動産と資源売り。自国に価値創出の土壌が広がらない。
滞在最後の日、義母にお小遣いで旦那さんから現金を渡す。義母は怪我したのもあって弱気になっていたので、我々の気遣いにふれて泣いてしまった。義理両親はベトナム戦争のせいで教育水準が低く、知性というものにほど遠い。簡単に騙され、小さな病気を大げさに捉えて寿命が短いと思いこんで人生悲観し、医療費を削って安い民間療法に乗り換えより不健康になったりして、本来ならば不要な不安要素に振り回されて生きている。しかしその不安要素といえば、少しの知識と少しの論理的思考があれば解決ような内容ばかりである。教育の不在が生み出す貧困は本当に罪深い。だからそれを放置し、保護もせず、私利私欲ばかりを追求するこの国の政府にとんと嫌気がさす。
義母のなぐさめもそこそこに、帰国するためにホーチミン市に戻る。ホーチミン市では噂のbooking.com経由で民泊に泊まったのだが、ちょっとしたNo show詐欺に巻き込まれて酷い目を見た。最後まで期待を裏切らないベトナムである。詐欺行為を働こうとする民泊オーナーに「お前みたいな自己中なクズがいるからベトナムが成長しないんだよ!」とブチ切れて旅は終わった。
最近怒りを抑えられない。プチ更年期かと思ったが、気づいたことがある。私はベトナムでベト男たちに苦労して、筋金入りのベト女になっただけだと。私はベトナム関連の受難一式に抗おうとして、結果的にベト女的な強さ逞しさを体得してしまった。ベトナムのせいである。この清々しいほどの他責傾向も含めて、すべてベトナムのせいである。