ロックダウンを振り返る
ホーチミン市は2021年の7月7日から首相指示16号という強めのロックダウンが始まり、余計な外出を控えろというレベルのロックダウンが始まった。このときはまだ制限はそんなになかったが、2021年の8月から9月末まで16号+というハードロックダウンで鎖国された。
8月23日からハードロックダウンが始まるという噂が20日の昼前からSNS上で流れ始めた。私はたまたまその時スーパーにいたのだが、ちょうどそのタイミングで突然長蛇の列が出来はじめた。長い列に並ぼうか迷ったが、あとから蕎麦のネギだけ買いに来るのが面倒すぎてその時しぶしぶ並んだのが功を奏して、この後貴重になる新鮮な食材を買うことができた。(このあとすぐに買えなくなった)
ねぎを買って自宅に戻ると、同じフロアの犬友が、”明後日からロックダウンらしい、食料を買い込んでおいたほうがいい”と教えに来てくれた。ありがたい。Twitterで状況を確認したら、ベトナム在住の日本人は「噂でありオフィシャル情報じゃない」「フェイクニュースばらまいたら公安に目つけられる」とかなんとかで揚げ足取りをしあっていて、こんな有事に正義振りかざしている人が多くて残念だった。私はいそいそと再度外出してミニストップで可能な限りのおにぎりと子供のお菓子を買い込んだ。ついさっきの情報なのに、もうどこも売り切れか激混み、Vinmartなんて大型スーパーのくせに直後から店閉めやがって、社会インフラのくせにまじろくな時に使い物にならない。
21日の夕方、義母が肉を10キロ、野菜とドリアンを送ったと連絡してきた。22日の朝10時半、荷物は長距離バスサービスセンターに到着しているのだが、そこから配達してくれる配達員がいなくて置きっぱなしにされている状態だった、肉もある生鮮食品なのに。懇意にしているタクシードライバーのトンさんに頼んで、持ってきてもらえた。ベトナムの牛5キロ、豚5キロ、きちんとクーラーボックスに入って冷えていて、腐敗はしていなかった。大きなドリアン3玉も入っていた。この有事にこれは要らないのではと正直思った。うちの食料在庫は義母からの差し入れもあり、また米はタイミングよく日本から届いたばかりで数十キロあり当分心配ない状態になった。
義母から届いた牛肉は焼くと固くなるので、圧力鍋で赤ワインとトマトで煮込んでビーフシチューやカレーにした。包丁でたたいてひき肉にしたり、全く使い道のなかった料理の知識、今やっと役に立った。
ハードロックダウン開始1日前の22日に、日本帰国準備に向けて最もリードタイムが長い(180日)犬の狂犬病抗体検査を受けに、バイクに家族全員またがって動物病院に駆け込んだ。ロックダウンが始まってしまうと、いつ検査を受けられるかわからなくなる。公安に捕まるかドキドキしながら近所のインターナショナル動物病院行って、無事血を検査機関に送ることが出来た。
こうして準備万端で、23日にハードロックダウンに突入した。
首相指令16号+中は、冗談抜きで一歩も外に出られない日が続いた。ワクチン接種や病院以外で外に出ると、うろついている公安に罰金刑(1万円)を食らう。ロックダウン開始3日間くらいは、朝早くにジョギングに出かけて罰金とられまくっている人たちのニュースが流れていた。市民は罰金刑を食らいまくって抜け道がないということに気付き、静かに家に籠るようになった。マンションの入り口出口も含めて、ホーチミン市内のあらゆるところにバリケードが張られて出られないようになっていた。私はたまたま7月末に超品薄のランニングマシンを幸運にも手に入れていたので、毎日運動することができた。犬もランニングマシンを気に入って歩いていたので、運動不足にならなかった。
ハードロックダウン中は一日中家族全員が家の中にいて、仕事は全てリモートワークで実施した。私はちょうどこの時期に結構重いプロジェクトがあって忙しくしていたので、それに気が紛れて、ずっと家にいても頭がおかしくなるほどのストレスはかからなかった。コロナが流行し始めてリモートワーク推奨になった際に、ベッドを1つ解体してリモートワーク用の机を入れて、椅子と机も用意していたので、オフィスに行って仕事するよりもロスタイムが少なくて逆に良い点もあった。
幼稚園も閉鎖になったが、どうせ再開には時間がかかるだろう、再開したところで夏休み冬休みテトと実稼働日が少なくて金ばかり払うことになるし、半年後には帰国だからと我が家はそもそも7月末で幼稚園を辞めてしまっていた。ジムもキッズルームも閉鎖してしまって、しょうがないので一日中家でグダグダしていたが、簡易プールを無理やり居間に設置したりして、なるべく体を動かせる機会を作ったりした。
ハードロックダウン中は外出が出来なくなったので、当然買い物に行くことが出来ない。その対策として、各小売業者がZaloというチャットアプリやGoogle documentを使って、オーダーを受注する運用を始めた。Zaloのミニストップマステリ(うちのマンション名)店グループに1000人くらいのマステリアパートユーザーが登録されていて、そこでオーダーをチャット式で送るという運用だったのだが、紙より使いにくい手運用で依頼したものが来たりこなかったりした。決済は指定口座に銀行振り込む運用で、店側の確認工数がすごく膨大だったと思う。店側が入金を確認すると、商品を詰めた袋をマンションのエントランスに持ってきてくれる。テーブルに置いておくだけでF2Fで受け取るわけではないので、受け取り場所から勝手に誰かが盗んでいくということもあったようだ。(一応高級コンドミニアムなのだけど)商品選択ミスがあるのは毎回で、しなしなの野菜送ってきやがったりもザラにあったが、使えるところは使う、ないよりマシという戦時中のような意識で買い込んだ。しかも結構高かった。このときのエンゲル係数、日本の生活より高かったと思う。買えるものは全て買うというスタンスで買ってた。食材を細かくチェックして1週間分の献立を用意し、材料が不足しないように生産計画を立てた。イカ一ぱいを半分にしてチヂミとパエリアを作るとか、玉ねぎ1玉をハンバーグとサラダに、とか緻密な生産計画を立てた。計画通りまわせて日々の食事はロックダウン前よりきちんと作れていたけど、ロックダウンの後この反動で台所に立つのが嫌になり、ほとんど自炊をしなくなった。
ロックダウン以降はいろんなサービスが停止したので、髪を切ったりもできなくなった。バリカン買って旦那さんの髪をYoutube見ながら切り、何度かやっているうちに結構うまく切れるようになった。犬の爪も病院で切ってたけれど自分で切れるようになった。子供の髪も切れるようになったし子供の服も縫った。(前から縫えたけど1枚も買えなくなったので背水の陣でうまくなった) ビーフシチューをルーなしで作れるようになって、パンも作った。(こちらは最後までうまくいかなかった)
締め出されて3週間くらいたった8月中旬に1回目のワクチンを打ちに行った。突然アパート管理会社から連絡が来て、この地域に住む35歳以上が対象でアストラゼネカを打てるとのことだった。接種場所は1㎞くらい離れていて、ロックダウンでタクシーもないので歩いていくことにした。すごい豪雨でびしょ濡れになりながら辿り着いて、無事1回目のワクチンを打てた。日本政府はベトナムに数百万本のアストラゼネカを送ってくれてそれがまわってきたのかわからないけど、先進国がワクチンを提供してくれたおかげでベトナムではかなりスピーディーにワクチン接種が進んだ。日本ではアストラゼネカワクチンが最初使えなかったから、要らなくなって送ったんだろと非難されていたが、こちらとしてはめちゃくちゃありがたかった。
ハードロックダウンは結局9月末まで続いた。9月15日に開けるといっていたのに2週間延長になった。なかなか終わらなくてストレスが溜まっていった。長引くロックダウンで生活に困る人が続出し、かといってホーチミン市から地元に帰省することが出来ず、こんな能天気な明るい国で自殺者のニュースがちらほら聞かれるようになった。旦那さんの従業員のお父さんもコロナで亡くなった。死亡率が3%を推移していた。
コロナに罹患しなくても、「食べ物があるか」という不安が毎日あった。あらゆる物流が止まったので、金があっても食べるものがなくなる可能性というのが本当にあった。日本から調達するにも物流が止まっていてEMSが届かない。うちは何やかんやで乾物の備蓄が多かったから困ることはなかったが、日々の食べ物に困る家庭が続出して、ZaloでSOSを知らせるサービスが始まった。「4食分食べものをください」とか「野菜くださいとか」、アプリ上にコメントを出して、持ってる人が有志で融通する。各地から軍隊が集まって特にローカル地区に物資の供給をやったりもしていた。“死”というのが割と近くにあった。
仕事しているのがかなりの気晴らしになって、それがだんだん唯一の気晴らしになって、土日もずっと仕事している状態になった。旦那さんの仕事がオンラインのみになり大打撃を受けたので私の仕事が減ることなく忙しくさせてもらえていたのはありがたかったが、それでも毎日不安と緊張が絶えず、適応障害のようになってしまった。助けを求めるにしても「自分がいかに悲惨な状況下にいるか」というのを論理だてて報告しなければならなかった。それは自分が可哀そうな立場の人間だと表明しているようで惨めだった。
10月1日、結局感染数は減らないまま外資からの圧力に屈する形でロックダウンが解除された。9月30日夜にちょっと外に様子に出てみたら、結構人がもう出ていた。みんな自由を噛みしめているように見えた。公園のライトが夜景のようにキラキラ輝いていた。
隔離が9月末で終わって、10月になったら元通りかというとそうではなかった。この記事を書いている時点でロックダウン解除から2か月経って街の中の活気は戻ってきたが、ビジネス状況の復帰まであと一年かかると思う。各社コロナ対応で資金がなくなったし、なにより「ベトナムはこんなとんでもないロックダウンをする国」という前例が出来てしまって、投資先候補から外れるようになってきた。
ちなみにロックダウン前後を含めて、私のメインのお客さんであるベトナムの各工場はとても大変な対応を強いられていた。陽性が出ればそのまま人を外に出さずに丸ごと隔離させられて、検査代、泊まり込み操業の手当て、3食、ホテル代、などなど全て負担させられた。各工場はテントを買い込んで、倉庫などに並べてそこに従業員を確保して稼働させた。オーナーが逃げてしまった工場のニュースもちらほら聞いた。コロナ初期は1人陽性が出れば工場閉鎖となった。銀行やITインフラ系もサービスを止められない、かといって自宅からリモートアクセスできないので、テントを店内に置いて従業員をそこに住まわせ、業務をまわしていた。しかしそれでフル稼働出来るわけではなく、ものすごいコストが嵩んだ。コロナ感染を恐れたワーカーは田舎に帰ってしまって、操業率が低くなってしまったりもした。港で陽性が出れば港が止まり、輸出さえできなくなった。皆急いで輸出しようとするのでコンテナも足りなくなった。この年、駐在員で工場長ポジションの人はとても辛かったと思う。トラウマになったんじゃないだろうか。
ロックダウンを通して、国の物流や社会保障、医療体制の厚さ、日本が南極だとしたらベトナムは湖の氷くらい脆弱だと思った。日本だって亡くなった人がいるし医療ひっ迫とか言ってたけど、ベトナムはろくに手当も受けられない野戦病院が作られてそこに強制隔離になるだけだった。大使館からわざわざ、「日本人には厳しい環境」(だから罹患しないように気を付けて)というメールが来るくらいだった。そこで亡くなった日本人も複数人いた。売り上げが落ちた事業主に補助金が出るなんていうのもベトナムだとありえない。補助金を出さないで税率を下げるだけなので、日々の暮らしが保証されない。
コロナを通して、日本がどんなに人権が守られた国かというのを痛感した。奇跡に近い特殊な国民性だと思う。