ノトニクル

ノトがベトナムのどこかをうろつきます。

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ベトナム人と結婚してみた ⑨初めてのテト 後編

      2017/08/30

帰省二日目、ダクノンには観光に来る人なんてまず一人もいないので、考え付くあらゆるエンタメが存在しない。カラオケだってない。ボウリングだってもちろんない。あるのはカフェくらい。カフェなんて洒落た言い方をしたら誤解されるかもしれないが、要するにただのコーヒーを出す店である。コーヒーと言ってもライトなアメリカンなんかなくて、ドロっとしたコーヒーエキスをコンデンスミルクと氷で伸ばして飲むベトナムコーヒーしかない。フラペチーノなんかもちろんない。そもそも生クリームが売ってない。

いよいよやることがないので、正月だし神様にでも祈っとくかと村の神社に行くことになる。やっと暇をつぶすイベントが出来たと思ったら家からバイクで5分くらいのところにあって、暇どころか1時間も潰れないご近所であった。ベトナムの神社や仏像はサイズだけはどこも無駄にでかいのだが、神社としての機能を満たしさえすれば満足なのか、ただっぴろい講堂の中にポツンと仏像があって、しかもホームセンターで売っているような金色のスプレーで塗ったくられて全体的にかなり閑散かつチープな仕上がりになっている。見世物はこのくらいしかないので、暇を持て余した私は線香にひたすら火をつけてご神体一つ一つにたんまり線香を供え続けた。線香大好きだと思われたのか、母ちゃんと甥が線香に点火して渡してくれる。結果ここのどの仏像より線香をもらう私。

神社参拝も一瞬で終わったので、山の上にバイクでドライブに行こうということになる。なんでもパッションフルーツ畑があるらしい。パッションフルーツ狩りは以前に一度やったことがあって、顔に蜘蛛の巣がはりついたり木が低いもんで腰が痛くなったりしたが、手持ち無沙汰で何もしていないよりは全然いい。収穫後にはパッションフルーツをソースにして美味しいチーズケーキを作ることも出来る。バイクでなだらかな高原を進んでいく。真っ赤な赤土のコーヒー畑の間を通り抜けていく。日差しこそ強いが澄んだ冷たい空気が心地よい。キリっとした日本の春の空気を思い出す。空は開けていて人っ子一人いない。たまに眠そうな犬を家の玄関先に見かける。

10分程走ると親戚の家に着く。パッションフルーツ畑の件はどうなった?なんとパッションフルーツ畑はこの親戚の家の庭にあるとのことだ。そうかそうかと安堵することなかれ、ベトナム的にはこれはもうほとんど言いがかりである。ここに来た目的はもはやパッションフルーツではなく親戚挨拶であることは明白である。昔母親に「お菓子買いに行こう」と言われ病院に連れて行かれて注射を打たれ、帰りについででお菓子を買ってもらった幼少時の屈辱を思い出す。しかし今は幼児どころか山姥呼ばわりさえされるアラサー、ここは大人の対応でしぶしぶ親戚の家にお邪魔する。そこでまたバインチュンをひたすら食べさせられる。豚の角煮みたいなトロトロの煮込みが入っている。美味しいのは美味しいのだが結構お腹に貯まる。“取り皿を空にするのはまだ食べれますという主張だ”いう都市伝説はこのど田舎でも有効であるようで、取り皿が空になる度に(厳密には取り皿にスペースが出来る度に)ばあちゃんが食べ物をよそってくる。これがまだ軽い煎餅みたいなものならいいのだけど、グリルした豚やら取りやらをホイホイ乗っけてくる。鶏なんかさっきまでその辺を走り回ってた地鶏なので、死後硬直なのか知らないけど噛み切れない。

一緒に来た旦那さんと義理の父ちゃんはかれこれ親戚と1時間くらい雑談を続けて、私は特に話すこともないのでバインチュンをひたすらつまみ続ける。ずっと忙しく食べているように振る舞うのもなかなかしんどい。牛歩ならぬ牛食である。自分の作ったバインチュンをひたすら食う客に喜ぶばあちゃんは私にいろいろ話しかけてくる。そして頑張ってベトナム語を話す外国人に気分を良くしたのか、結構な額のお年玉をくれる。私の知る限り、この土地の月の現金収入の半分の額である。私の旦那さんがそれを止めようとするのだが、ばあちゃんは「あんたにじゃない!」と怒る。まぁどこの国でも同じようなことが起こるのだ。1時間くらいたったころにやっとパッションフルーツ狩りに行くことになる。しかしまだ全く収穫シーズンでなかったらしく、散々歩き回って散々虫に刺され収穫できたのは1個だけであった。しかしパッションフルーツが1個あったって何するにも少なすぎて使えない。結局そのパッションフルーツも親戚に“返品”して岐路に着く。

旦那さんの実家に戻ってまたゴロゴロする。テトに限らずダクノンではこういう日常が繰り返される。収穫期になれば単純労働で銭を稼ぐ。女は家計を守り子供を産み育て、男はどこまでも広がる赤土の畑を耕す。みんなこの生活に何の疑問も持たず、色んな人生の選択肢を自分の人生に重ねない。ただひたすら雨を待って土を耕し子供を産んで日々食べていく。人々が湖で洗濯していて、立派な共産党のプロパガンダの看板と役所が牛と犬が寝ころぶただっぴろい6車線の立派な道路に虚しく佇んでいて、カラオケもボウリングも娯楽の一つもないことに別段疑問を持たない。

これが旦那さんのルーツ。旦那さんに限らず、一般的なベトナム人のルーツである。

今、ホーチミン市で私と暮らしながら、英語やら日本語やらを一生懸命勉強し頑張る旦那さん。ダクノンでの生活から離れてまだ数年、今だって勉学の有益性もわかってないし、効率的であることの有益性もわかっていないんだろう。でも彼なりに非効率ながらもやり方を模索し頑張っている。私たちが結婚するとき、周りの人達は、日本で不自由なく暮らしていた私にはベトナムの生活は耐えられないんじゃないかと心配していた。でも、私がベトナムに居て感じる苦労が、旦那さんが私といることで感じるそれより大きいなんてことはきっとないだろうなと思う。

私の常識、旦那さんの常識が違うことを頭ではわかっているつもりでも、その本質を、そのルーツをここダクノンでは肌で感じる。ここに来るまでは嫌で嫌で仕方がなかったのに、今は私の狭い視野を自分で広げられる“成長”のようなものを実感できて、かすかではあるが喜びすら感じる。どこかで我慢して受け入れてきた異文化を、すっと飲み込んで消化できるようになった自分の変化の喜びと言えばいいだろうか。

ホーチミン市に帰る晩、父ちゃんが私たち二人を呼び寄せる。テトに帰ってきてくれてありがとう、時間がない中帰ってきてくれて本当に嬉しかった。いつも健康で、幸せでいなさい。自分は仕事があってホーチミンには頻繁に行けないけど、かあちゃんは月1でホーチミン市の病院に通院しているから、その時にいくらでも頼りなさい。

帰りのバスに乗る。甥が行かないでと泣く。母ちゃんがどこかから集めてきた果物や野菜やらを布袋一杯に詰め込んで、他人の荷物を押しのけて勝手にバスに乗せる。いつも私はこの帰りのバスで思う、こんなに善良な人達のために何かしたいと。でもホーチミン市では私はそういう気持ちを保ち続けられない。そこでふと気づく、私はダクノンに来るとき、ある種の気持ちの備えを持ってきている。息を止めて潜水するような気持ちでダクノンに来ている。そしてホーチミン市に着いた途端、そういう緊張の潜水服が溶けてなくなってしまう。同時にダクノンの地で感じたこと、考えたことは特殊な思い出として分離されパックされ、都会の日常の思考に統合することが出来なくなってしまう。私は今後、ダクノンの特殊性を自分の中で普遍なものとして受け入れていくことは出来るのだろうか?

何度通っても遠い遠いダクノン。ここにはベトナムの華やかな表向きの顔を持つホーチミン市とは相いれない決定的な断絶がある。取り残され隔離された場所。世俗的なホーチミン市と1日2本のバスで細々と繋がれているだけの場所。華やかな都市の喧噪を一枚めくった下にある、本当のベトナムの姿だ。

 - ベトナムをゆく

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