ノトニクル

ノトがベトナムのどこかをうろつきます。

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2021テト ダクノン山アタック Day4

      2024/03/06

9時に起きてもやしと平めんを食べる。食って寝、次のご飯の用意を繰り返している。
 
昼に義母のお姉さんの家族が昼ごはんを食べに来る。鯉とマナガツオのグリルを、巨大なバナナの葉に乗せて、大量の野菜とともに生春巻きにして食べる。ここは山の上なので海水魚ってだけでご馳走なのだけど、港町で育った私には新鮮じゃない魚が受け付けない。
 
近所に住む6歳くらいのケンというニックネームの男の子がうちの娘のところに遊びに来る。ちょっと猿っぽい顔をしているとても可愛らしい子で、とても行儀がよくて腕を組んで丁寧に挨拶してくれる。あまりにもかわいいので私がお菓子をあげるのだけど、夕飯前だからと断られる。教育が行き届いている。3歳の娘はケン君に対して日本語しか話さないので、「emはベトナム語か英語を勉強するんだよ、自分は英語を勉強するからね」と娘にベトナム語で話しかけていた。キュン死しそう。
 
 
家系図も聞いたので、ついでに旦那さん一家の生い立ちを聞く。

義父はクアンガイ省という中部の生まれで、義父の母(義理の祖母)は離婚してラムドン省へ移った。義父は長男だったので兄弟たちを面倒見なければならなかった。だから勉強なんて全然していなくて、もっともこの時代はベトナムはまだ戦争の時代だったので生きていくだけで精いっぱいだった。当時ベトナムは長い戦争の後でまだまだ治安が悪かった。義母との結婚後もやはり生活は依然安定せず、カンボジアやタイに近く交易があるフーコック島へ親戚一家と移住することになった。フーコック島では漁師として働いたが、金持ちだった親戚に奴隷のようにさんざんこき使われたらしい。7年間フーコック島で生活して、旦那さんもここで生まれた。7年目、義父が海で事故にあうことを危惧した義母は義父を説得して、義父側の親戚のいるダクラク省へ家族で戻った。しかしダクラクは気候が暑すぎて作物が育たないのでそこの土地を売って、別の親戚のいるダクノンへ移住、また土地を買って1から畑を作り始めた。

ここでの生活も大変で、長女(義姉)まで面倒見れなくてダラットの兄夫婦に預けることになった。(このせいで義姉はかなり性格がゆがんだ)時を同じくして義母が子宮外妊娠でホーチミン市の病院に入院することになった。このとき義母の兄一家が家財を売り払って医療費を工面したそうだ。(この話をしたとき旦那さんは泣いていた)義母は回復したが、2年後甲状腺の病気で手術となりまた一文無しになる。お姉さんはダラットでお母さんはホーチミンの病院に入院中なので、長男である旦那さんは学校もそこそこに家畜の世話と畑の手伝いをしていた。朝3時半に起きて畑に水やり、獲れた野菜や育てた家畜売って生計を立てていたらしい。それでも貧しく、ある年のテトの時5万ドンしかなくて、親戚にもらったバンテトと、5万ドンでイワシとトマトを買い込んで、冷蔵庫なんてもちろんないから腐敗しないように12時間ごとに火を入れ続けて1か月食べ続けたそうだ。

そういう大変な苦労があったせいでか、旦那さん一家はどことなく達観している。幸せのハードルがものすごく低く、小さなことに大喜びする。私がベトナム語を話したとかそれだけで、1歳児が言葉話したとかと同じレベルで狂喜する。私がどれほど社会的に身を立てているかとか聞いてこない。価値基準が圧倒的に家族の健康と日々の幸せになっている。

 
ところでそんな旦那さん一家に嫁いだ私だが、私自身はかなり裕福な家庭で育ってきた。だから私と旦那さんが結婚するとき、うまくいかないと言ってくる人がいないわけではなかった。でも今のところ、私たちはうまい具合にはまっている。
思うに、旦那さんたちはどちらかというと死から逃げる人生を送ってきた。日々の暮らしに困るほど貧乏だが沢山の愛情だけは受けて、気持ちの優しい、強い農耕馬になった。私はどちらかというと死というものが逃げ道としての選択肢にある人生を送ってきた。沢山の投資と競争を与えられて優秀な競走馬になった。全く正反対の人間が一緒になった今、旦那さんたちからは私から文化的な歓びを、私は旦那さんたちから純粋な生の歓びを与えられていると最近思う。私はよくここで”純粋な生を噛みしめている”という実感がある。人間の出来で評価されない、生きているだけで喜ばれる、それが単純に心地よい。
 
でも旦那さんの生き方を手放しで称賛しているわけではない。もし生まれつく先を選べたとしても、私は旦那さん一家のような暮らしはしたくない。食べ物に困ったり金に困ったりしたくない。私は旦那さん一家の壮絶な戦いの歴史を尊敬し尊重するが、経済的なハンデが大きかったはずなのはたしかで、それがのちのち教育へのアクセスや労働への機会不平等につながっていった。だから私は好んで旦那さん一家のような環境に生まれたくないが、貧乏に生まれつくことは単純に不公平だとも思う。だから私みたいに多少なりとも経済的に恵まれた者は、多少なりとも還元するべきだと考えている。金銭が生きるための手段である以上、運を再分配する、それが人道というものだと個人的には思う。(またそれが根幹となって安心して暮らせる相互補助社会が出来る) だから彼らが困ったら喜んで助けたいし、実際人間社会の仕組みとして助ける義務があると思っている。
 
夜、みんなで散歩に出かけた。道中はしゃぎながらダラットに行くことをノリで決めた。金で買える幸せを、この人たちともう少し一緒に楽しみたいと思った。

 - ベトナムをゆく

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